日本政府が令和に改元後、新紙幣の新一万円札の肖像画に入れる検討を始めた人物が、「 日本資本主義の父 」渋沢栄一氏【 享年91 】であると報じらている。
渋沢栄一氏の最初の嫁は尾高千代氏で、千代氏が亡くなった後は、後妻に伊藤兼子氏を迎えているが、2人の奥様の経歴プロフィールはどうなっているのか。
【 本稿の記事ページの目次 】
渋沢栄一氏の最初の嫁は誰?尾高千代氏の経歴
埼玉県深谷市生まれの渋沢栄一氏は、19歳の時に実業家の
尾高惇忠( おだか じゅんちゅう )氏【 享年70 】の
妹である、当時18歳だった尾高千代氏【 享年42 】と
結婚し、最初の嫁として迎えた。
尾高千代( ちよ )氏は、名主の尾高勝五郎保孝氏
【 享年56 】の娘であるが、結婚した当時は渋沢栄一氏よりも
1歳年下の新妻だった。
渋沢栄一氏が最初の結婚をし、尾高千代氏が嫁いだ日は
安政5年( 西暦1858年 )の12月7日であった。
渋沢栄一氏の父親である、渋沢 市郎右衛門【 元助 】氏
と、千代氏の母親である尾高勝五郎保孝氏の嫁「 やい 」氏
(「 やへ 」とも )【 享年62 】は、姉弟の間柄だった。
さらに、尾高惇忠氏と渋沢栄一氏は従兄弟でもあった。
渋沢栄一氏の最初の嫁、尾高千代氏は1882年
( 明治15年 )の年7月14日に、飛鳥山邸で病気の
ために亡くなっている。
新一万円札の肖像画になる渋沢栄一氏の
最初の嫁である尾高千代氏の経歴を一覧にして
以下に、まとめてみた。↓
- 1841年生まれ
- 父・尾高勝五郎氏の三女
- 母・やい氏は榛沢郡血洗島村の出身
- 姉・みち氏は大川脩三氏の嫁
- 弟・尾高平九郎氏
- 兄
- 尾高惇忠氏・作曲家は曾( ひ )孫
- 尾高長七郎氏・尾高勝五郎氏の次男
- 子
- 長男・市太郎氏( 早世 )
- 次男・篤二氏
- 長女・歌子氏
- 次女・琴子氏
- 三女・糸子氏( 早世 )
- 養子・尾高平九郎氏( 千代氏の弟 )
- 性格・気丈で内助の功あり
- 明治15年( 1882年 )7月14日に享年42で病没
- 逝去の原因・コレラに罹患
- 逝去の場所・飛鳥山の自宅
なお、渋沢栄一氏は最初の嫁である尾高千代氏が
病没した翌年には、後妻である伊藤兼子氏と再婚。
次章では、後妻の伊藤兼子氏との
馴れ初めにも迫ってみたい。
渋沢栄一氏の後妻は誰?伊藤兼子氏との馴れ初め
渋沢栄一氏の前妻である、尾高千代氏が亡くなった
翌年の1883年には後妻となる、伊藤兼子氏だ。
伊藤兼子氏は、武蔵国川越出身の大富豪である
伊藤八兵衛氏【 享年65 】の次女である。
伊藤兼子氏も、18歳の時に江州から婿を迎えて
結婚をしているが、実家が没落した時に離婚している。
では、その後に再婚した新一万円札の肖像画となる
渋沢栄一氏との馴れ初めは、どの様な出会いだったのか?
妾というのならばどうしても嫌いやだと、口入れを散々手こずらした。
零落ても気位きぐらいをおとさなかった彼女は、
渋沢家では夫人がコレラでなくなって困っているからというので、
後の事を引受けることになって連れてゆかれた。その家が以前の我家、倒産した油堀の伊勢八のあとであろうとは。
彼女は目くらめく心地で台所の敷居を踏んだ。
つまり、伊藤兼子氏の実家が見る影もなく
零落( れいらく )したあとに、自身が稼ぐめに
「 芸姑の仕事は有りませんか? 」と、仕事探しで
両国の「 すしや 」という口入れ宿に相談していた。
ここで、「 妾の紹介なら出来る 」と言われたが
「 妾だけは、どうしても嫌です 」と断っていたのだ。
そこで、「 渋沢栄一氏の夫人がコレラで亡くなって
困っているから、助けに行ってくれないか 」という
依頼が来たので、ようやく引き受けたという流れだ。
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そこで、伊藤兼子氏が渋沢栄一氏の邸宅に
行って見た所、その深川の本宅は以前の自分の
持ち家だったとオチだ。[ shibusawa-eiichi ]
以上が、渋沢栄一氏と出会った2番目の嫁の
伊藤兼子氏の馴れ初めエピソードである。
渋沢栄一氏の最初の嫁の尾高千代氏の顔画像
本章では、渋沢栄一氏の最初の嫁さんの
尾高千代氏の顔画像を、引用で2枚掲載する。
上が、深谷市指定史跡「 尾高惇忠生家 」の
中にある尾高千代氏の顔画像で、下が
深谷市のパンフレットに掲載されている
尾高ちよ氏の顔写真になる。
渋沢栄一氏の2番目の嫁の伊藤兼子氏の顔画像
渋沢栄一氏が最初に結婚した妻に送った手紙
「 相わかれ候よりは一度も婦人くるい等も致さず
全くくにの事のみしんぱいいたしおり申し候あいだ… 」
( 元治1.10.5 )「 此方には更にわすれ申し候日これなく候あいだ、
おまえ様にも御みさお御つのりなされ候よう
たのみあげ申し候… 」( 慶応3.1.9 )「 かねてこなた心は承知の通りにて、たとえ十年が
二十年とても相かわりなき赤心、ただただ憐れむべきは
そなた事に候えども… 」( 慶応3.5.15 )「 その節まではよくよく貞操御守りなされたく
頼み入り候 」( 慶応4.3.30 )
上記の手紙の内容は、渋沢栄一氏が文久3年
( 1863年 )11月から明治元年まで、実に5年間もの間
ヨーロッパに行った時に、最初の嫁である千代氏の
心変わりを恐れて、そうならないでくれと懇願した
内容の手紙となっている。
以上が渋沢栄一氏の初婚の嫁の尾高千代氏と、
再婚の妻である伊藤兼子氏の経歴と馴れ初め、
そして顔画像である。