台風の進路予想の最新情報がメインのブログです
【 当記事ページの目次 】
極北の地、サハリン[ saharin ]は厳密には
ロシア連邦領の「 サハリン州 」を指し、
場所は北海道の北部に位置する島で
日本名は樺太( からふと )島である。
同じく今もロシア連邦の支配下にある
択捉【 えとろふ 】島、国後【 くなしり 】島、
色丹【 しこたん 】島、歯舞群【 はぼまい 】島は、
これらを北方領土と呼び現在、日本が
返還を求めている4島で北海道根室半島の
東側に位置する。
問題なのは、サハリンで1945年の終戦時から
日本本土に帰ることが出来ずに、いまでも
ここで暮らす日本人が居るという現実がある。
日本人同様に、本国に帰れなくなった
韓国人や朝鮮人の方を「 在樺コリアン 」と
呼び、サハリンへの残留を余儀なくされた。
在留邦人が故郷へ帰れなくなってしまった
理由は、結論から記すなれば当時の
ソビエト連邦軍が日本と締結していたはずの
「 日ソ中立条約 」( 不可侵条約 )を
一方的に破棄して、サハリンの国境であった
北緯50度線を越えて南下し軍事的武力進行の上、
占領し実効支配下に置いたからだ。
これ、ロシアのサハリンの鉄道なんだけど、この路線は元々日本が戦前に引いた「樺太庁鉄道」がルーツで、ソ連やロシアになった後も1067mmのままで使われていたが、ロシアにはここ以外に1067mmの路線が無く本土の車両が走れないのでロシア規格の1520mmに改軌していて、一時的に三線軌条になっている。 pic.twitter.com/yUCjky0JYy
— 東武8111F@ハム太郎20周年 (@8111Fhamtaro) 2017年12月6日
細かい理由は他にも有るが主な理由は以上で
当時の満州国【 中国東北部 】への進行と同じような
ソ連軍の軍事侵攻が無ければ、そもそも
サハリンの移住者は日本本土へ帰ろうとする
必要すら無かったのかもしれない。
今年、外務省が公開した文書に依れば
1945年6月1日にドイツ領の日本総領事館職員が
東郷茂徳外相【 満67歳没 】あてに「 ソ連は対日攻勢に
転じると確信した 」とする報告書を送っている。
つまり当時、広島や長崎への原爆投下と同様に
ソ連軍の侵攻も2か月以上前に関係者から
日本の閣僚に報告が上がっていたのにも関わらず、
無視された事実を如実に物語っている。
当時サハリンで暮らしていた日本人は
移住者のみでなく、そこの土地で生まれ育った方々も
含まれるが戦時中は本当に穏やかで
空襲すら1回も無かったのだという。
それが、1945年の8月9日の
ソ連軍の一斉侵攻でサハリンは一転、
地獄絵図と化し、占領され統治下に置かれた後は
日本本土へ帰れなくなった在留邦人が
数多く残された。
( 以下「 日本とサハリン( 樺太からサハリンへ ) 」から引用 )↓
日系一世の場合その多くは女性( 特に長女 )であった。
彼女たちは終戦前、家族を養うために
やむなくロシア人や韓国朝鮮人と結婚したり、
強制的に結婚させられたりした結果、
幼い子どもを抱え引き揚げの時期を逃してしまっていた。その後も引き揚げの機会はあったのだが、
子どもを残して自分だけ帰ることができなかったり、
韓国朝鮮人の夫が日本への引き揚げに同意しなかった、
あるいは引き揚げ後の差別や、生活への不安を抱いて
サハリンに残ってしまったという人も多かった。また残留邦人には男性も少なくなかったが、
こちらはインフラ維持のためにソ連が
帰国を許さなかった技術者が多かった。
( 引用ココまで )↑
以上に引用した記述が、「 日本に帰りたくても
帰れなかった残留邦人の本当の事情 」
なのでは、なかろうか。
本日放送されるテレビ番組に出演されて
いらっしゃる方も14歳の頃に天涯孤独の
身に、なってしまいサハリンに
永住しているのだという。
詳しい内容は放送を見ないと分からないが、
少なくともソ連軍の武力侵攻に拠って
町が破壊され天涯孤独の身に、なって
しまわれたものと思われる。
また、ソ連軍の進行が始まってから
翌日の8月10日には当維の豊原市
【 現ユジノサハリンスク 】に有った
最高行政機関の「 樺太庁 」が北海道への
緊急疎開を13日から実施している。
8月15日に終戦を迎えた日本だったが、
22日にソ連軍は豊原市を爆撃し、市街地は
焦土と化したというが同日の前の時間に
知取町【 現マカロフ都市管区 】で
停戦協定が結ばれた。
それよりも前から北海道に向けて
緊急疎開船を出した樺太庁だったが、
その詳細は次章以降で記述する。
ソ連軍の侵攻が始まった9日以降は
無論、日本側も峯木十一郎中将率いる
第88師団を中心とした陸軍が
徹底抗戦したが、戦闘機も戦車もない
日本軍の抵抗も虚しく、ほぼ全滅という
悲惨な結果となった。
だが、決して無駄な抵抗だった訳では無く
もし日本軍が抗戦しなかった場合、TOP画像にある
北海道の最北端、宗谷岬を含めた北海道の北半分が
ソ連軍に占領されていたものと見られている。
( 以下「 ウィキペディア:樺太の戦い 」から引用 )↓
ソ連軍による北海道占領は、8月18日に
アメリカ大統領トルーマン【 満88歳没 】が
占領を認めない旨の書簡をソ連のスターリン
【 満74歳没 】に送ったのを踏まえて、
8月22日以降に( 攻撃の )中止命令が出された。
( 引用ココまで )↑
最終的には22日の停戦協定後、25日の
ソ連軍の大泊【 現コルサコフ都市管区 】
占領後まで、戦闘は続けられた。
この間にも前章で申し述べたように
樺太庁は北海道への緊急疎開を実施。
13日から多くの避難民で溢れかえった
大泊港【 現コルサコフ港 】真岡、本斗の3港が
出港地であり、そこから北海道の留萌港を目指した。
ただし引き揚げの対象者は65歳以上の、
お年寄りと14歳以下の学童、40歳以下の女性に
限られた約16万人で、あったとされる。
だが、実際に日本に帰ることの出来た
人々の人数は9万人あまりで、あった。
それでは緊急疎開用の引揚船に
乗ることが出来た人々は無事に日本へ
帰る事が出来たのであろうか?
残念ながら答えは否である。[ saharin ]
21日の夜に避難民を満載にして出港した
小笠原丸 第二新興丸、泰東丸の3隻は
22日朝、北海道留萌沖を航行中に
ソ連の潜水艦に攻撃されてしまい、
犠牲者1700人以上を出している。
ほうほうの体で、どうにか沈没を免れた
第二新興丸だけは北海道の留萌港に
辿り着いたが、多くの犠牲者を出している。
このあと25日ソ連軍が豊原市に進駐後、
翌1946年12月まで日本への引き揚げは禁止され、
ソ連の社会主義政策の統治下に置かれる事となる。
[blogcard url=”https://takenori.info/blog/northern-territories/”]
ここまで記事を、したためてきて思うのは
今のように簡単に行き来できる時代ではない
戦時中は、日本に帰るのも命がけで
あったということだ。
特に1945年の8月25日以降、
引揚船の出航がソ連に禁止されてからも
密航で帰ろうとした方はソ連兵の手によって
命を落とすことも有ったのだそう。
翌年の12月に再び引き揚げが再開されるまでは、
サハリンに留まるしか無かったが、
帰るタイミングを逃してしまった人々は大勢いる。
それが前述したように結婚した相手に
引き止められたり、非常にも子供を置いて
自分だけ帰れなかったり、またはソ連側の
事情で返してもらえなかったからである。
さらに移住者でなくても、もともとサハリンで
生まれ育った方などは故郷を捨てて
新天地の日本に向かうのは
複雑な感情が沸き起こるだろう。
よしんば、帰れることになった人々も
手に持てる荷物は最小限に制限され、
今まで汗水たらして築き上げて来た
財産は置いて行かなければならなかった。
こういう表現は語弊が有るかもだが、
終戦直前までサハリンに住まわれていた
方々は「 本当に毎日が安穏としてて平和だった 」
と語っていらしたのである。
当時は真岡【 まおか 】の基幹産業であった
王子製紙の工場もあり紙やパルプなどの
生産も盛んで、そこで生活をするサハリンの人々は
蓄音機も所有するなど、わりかし良い暮らしを
していたと言われている。
しつこく繰り返すが、これがソ連軍の侵攻によって
島民の生活全てが悲劇的な地獄へと変化した。
[blogcard url=”https://takenori.info/blog/hiroshima/”]
終戦当時、サハリンに居た在留邦人は
40万人、朝鮮韓国人の在樺コリアンも
4万人居たとされる。
[blogcard url=”https://takenori.info/blog/sikotan/”]
この人々のうち日本に帰国できたのは
約9万人だとされるが、ソ連軍に占領されて
統治下に置かれた後のサハリンは、
まず警察官や上流社会の人間、
もしくはソ連兵に刃向かった者など、
1万8,000人余りが「 シベリヤ強制収容所 」
へと送られた。
樺太は夏も熱いが冬も零下20°になるという。
[blogcard url=”https://takenori.info/blog/hoppou-map/”]
だが、強制収容所でのシベリヤ抑留者の
重労働は、それ以上に過酷を極め、
零下30°~40°の酷寒の中、森林伐採や
線路工事などを、長時間労働された挙句に、
出される御飯は黒パン2切れに箸が立たない
コーリャンの、お粥のみ。
一般的に公表されているシベリヤ抑留の
犠牲者数は6万人だとされるが、実際には
37万人以上だとするソ連側の統計も、ある。
[blogcard url=”https://takenori.info/blog/grave-of-the-fireflies/”]
またシベリヤへ送られなかった人々も
サハリンでのソ連兵の横暴の限りには
血の凍るような恐怖の、どん底を味あわされた。
民家に押し入っての不法行為など、
略奪も横行したのだと言う。
[blogcard url=”https://takenori.info/blog/story/”]
当時、艦砲射撃などでソ連軍が侵攻した時の
真岡【 まおか 】郵便電信局の電話交換手の
若い女性9人は「 辱めを受けるなら 」と
9人全員が自決して自ら命を絶っている。
テレビ東京で今夜9時から放送の番組に
出演されるサハリンに、お住いのおばあちゃんも
さぞかし言葉では語りつくすことが出来ないほどの
辛酸を嘗めて来られたのであろう。
記事ランキング
PR( 本ページはプロモーションが含まれています ) 北朝鮮と韓国の交流の拠点でホットラインだった、開城ケソン工業団地の中にある「 南北共同連絡事務所 」の場所が、どこかをGoogleマップで表示す […]