台風の進路予想の最新情報がメインのブログです
歌舞伎役者、十一代目市川海老蔵氏【 39 】
の妻でフリーアナウンサーの「 小林麻央 」氏【 34 】が
昨日22日の夜、懸命な乳がんとの闘病も敢え無く
息を引き取った。[ ascension ]
今現在は膨大なアクセスが集中しているために、
小林麻央氏のオフィシャルブログ「 KOKORO. 」と
夫、海老蔵氏のアメブロも閲覧できない
状態が続いている。
海老蔵氏は今朝、更新した自身のブログで
記事タイトルを「 2017年6月23日 」と付け、
麻央氏の訃報を次の様に綴った。
( 以下「 スポーツ報知 」から引用 )↓
「 人生で一番泣いた日です。
マスコミの方々も、お察しください。
改めて、ご報告させて頂きますので 」
( 引用ココまで )↑
この様に綴り「 ご報告 」は、
23日の2時38分からの記者会見で
お話しを、されている。↓
小林麻央氏が逝去された翌日の今日、
夫である市川海老蔵氏が公演されている
渋谷の劇場で、舞台出演の合間を縫って
涙ながらに記者会見に応じた。
彼女を看病していた海老蔵氏は
息が苦しそうだったとする彼女が
息を引き取る間際に、小さな声で
「 愛してる 」という言葉を聞いたのだと語った。
麻央氏の最後のフレーズを聴いた時、
海老蔵氏は涙が止まらなかったという。
女性記者に「 麻央さんは、どんな存在でしたか? 」
と聞かれると海老蔵氏は「 本当の自分を愛してくれた。
もし出来れば、このまま生きて子どもたちの
成長を見守って貰いたかった、そんな存在です 」
と話した。
彼女が帰らぬ人となってから、
子どもたちの反応は「 分かっている様で分かっていない 」
と返し「 今朝も息を引き取った麻央の顔を
触ったり足を、さすったりしていた 」
と述べた。
もしかすると、2人の子供たちは
「 ママを、さすれば目が覚める 」と言う希望を
抱きながら、そうしていたのかも知れない。
この子供たちの姿を見た時に今後、
自分が背負うものの重さを実感したと言う。
残された2人の子どもたちに関しては
「 心残りだと思いますよ 」と言い、
「 僕は彼女の代わりには、なれないが
出来る限りの事は、やっって行きます 」
と述べた。
また海老蔵氏は「 どんな時でも自分の事よりも
相手の事を思う優しさを持っていた 」と評し、
これが麻央氏との良い思い出であると話した。
そして「 ブログなどをご覧になって
麻央のことを応援してくださっている皆様が、
いらっしゃるので今回このような会見を開きました。」
と締めくくり、会見時間は約20分に及んだ。
ようやくアクセスが出来、見ることが
出来た小林麻央氏のブログ「 KOKORO. 」を
拝見させて頂いた。
「 オレンジジュース 」と題した
彼女のブログ記事は、これが彼女の
最期の投稿に、なってしまった。
投稿日時は6月20日の6時15分10秒である。
ブログに掲載されている麻央氏の写真を見ると
心なしか血色が良いように見えるが、この2日後に
帰らぬ人となった。
そして、麻央氏が最期の最後まで
自身のブログの読者を気遣うメッセージを
発信されている事に、先の会見で
他人を思いやれる人格の持ち主だったと
語った海老蔵氏の言葉を思い出した。
麻央氏の遺作と、なってしまった
KOKORO.の最後の投稿記事は「 転載禁止 」の
但し書きは見られなかったので、ここで引用させて頂く。
( 厳密にコピペなどに拠る転載と<ブロッククオーテ>の
専用タグで括る引用は違うので念のため )
( 以下「 KOKORO. 」から引用 )↓
「 皆様にも今日、笑顔になれる事が有りますように 」
( 引用ココまで )↑
これが彼女が渾身の力を振り絞って
書き上げた最後の一文である。
末期がんに侵されながらも、自身の読者を気遣う
心あたたまるメッセージを残した小林麻央氏。
がんに限らず、あらゆる病魔は善人悪人を選ばない、この皮肉な現実はいかんともし難い忸怩たる思いがある。
記事ランキング
PR( 本ページはプロモーションが含まれています ) 北朝鮮と韓国の交流の拠点でホットラインだった、開城ケソン工業団地の中にある「 南北共同連絡事務所 」の場所が、どこかをGoogleマップで表示す […]