桂昌院の幼名お玉の母親の鍋田氏とは何者なのか?

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玉の輿の由来である桂昌院の幼名お玉の母親の鍋田氏とは?

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玉の輿の語源は桂昌院お玉

「 成り上がり 」と言えば歌手の矢沢永吉氏【 68 】を思い出すが、桂昌院光子【 79歳没 】こそ、ザ・成り上がり!と言える人物では、なかろうか。

京都西陣の八百屋の仁左右衛門の娘

 「 お犬様 」で有名な徳川幕府第5代将軍の、徳川綱吉公【 享年64 】の生母である桂昌院光子は京都の身分の低い八百屋の娘から立身出世して、最終的には絶大な権威・権力を獲得し76歳の時には女性最高位である従一位の官位を授かっている。

ウィキペディアでは「 父親は下級武士の本庄宗正【 60歳没 】だった 」と記載してあるが、実は母親の鍋田氏が嫁いだことで養女( 他家から貰って養子縁組し、育てた子 )の身分で有ったという。

「 桂昌院 」より引用↓

『 徳川実紀 』によれば、父は関白・二条光平の
家司である北小路( 本庄 )太郎兵衛宗正だが、
実際の出身は、もっと低い身分であるという噂が
生前からあった。

【 引用ここまで↑出典:Wikipedia 】

つまり、桂昌院の本当の父親が身分の低い八百屋の仁左右衛門であり、その父が他界した後に桂昌院の母親の鍋田氏が格式、由緒ある西陣の大店である本庄家に嫁いだので一緒に養女として入った、というのが真相の様だ。

ちなみに本庄家が武家なのか商家なのか、いまひとつハッキリしないが、兼業だったのだろうか?

八百屋の娘として生まれた桂昌院光子の子供の時の幼名が「 お玉 」だったのである。

実は、桂昌院の幼名だった「 お玉 」という名前は非常に重要で次章で、ご説明申し上げる「 玉の輿 」の由来にもなっている。

「 玉の輿 」の由来は桂昌院が語源だ

 もとは八百屋の娘であった桂昌院が立身出世したキッカケは徳川幕府3代将軍の徳川家光公の側室に入ることで、5代将軍の綱吉公の母親に、なることが出来たためだ。

で、桂昌院の幼名時代の、お玉が何故玉の輿( たまのこし )と呼ばれる由来となったのか?

「 家光に見初められた八百屋の娘の生涯 」より引用↓

さらに本庄家の養女となった、お玉さんは公家出身の尼僧の侍女として奉公することになります。

つまり士から公家へと、またひとつ出世階段を上ったことになります。

【 引用ここまで↑出典:日経BP社 】

公家出身の尼僧とは後の徳川家光公の側室となる、お万の方と呼ばれた「 永光院 」【 88歳没 】の事である。

永光院 」より引用↓

寛永16年( 1639年 )に家光に謁見した時に見初められ、春日局によって大奥入りする。

【 引用ここまで↑出典:Wikipedia 】

つまり、永光院は時の将軍、徳川家光公に一目惚れされて、大奥入りを果たす訳だが器量抜群だった後の桂昌院こと「 お玉 」も幸運にも、その後に同じ道を辿ることになる。

この時、お玉は13歳の少女であった。

永光院が京都から江戸城に向かう時に同行した「 お玉 」は御輿( みこし )に担がれて江戸城に向かったとされる。

つまり、お玉が御輿に担がれて江戸城に向かった事が転じて「 玉の輿 」という呼び名の由来になったのだ。

一般的に言われている玉の輿とは、とある女性が社会的な身分の高い、お金持ちの男性と結婚することに拠り自分自身も裕福な生活や貴婦人の身分になれる事を指す。

実際に、大奥の側室いりが決定した栄光院の侍女をしていた、お玉も同時に大奥入りを果たして成り上がり街道の片道切符を手に収めたのである。

結果的に、そのまま京都に戻ること無く家光公の側室となり、5代将軍の家綱公を身ごもる事で立身出世の幸運を掴んだのだった。

ちなみに桂昌院が実現させたシンデレラ・ストーリーの逆バージョンが、いわゆる「 逆玉:ぎゃくたま 」と呼ばれるのは、ご存知の通りだ。

どうやって将軍綱吉の生母になったのか

 正保3年( 1646年 )の1月に綱吉を産んだ
桂昌院は35歳で将軍になった綱吉公とともに
54歳で将軍の母になる。

たしかに類稀なる美貌の持ち主だったからこそ、
桂昌院が側室に入れた事もあるが
家光公が亡くなった後は、大奥を出て
筑波山の知足院に入っている。

徳川幕府4代将軍の徳川家綱【 享年40 】が、
この世を去るまでの29年間は、不肖この私めが住む
茨城県の筑波山にある「 知足院 」にて仏門に帰依した。

Keishōin.jpg

かたや、5代将軍になる息子の綱吉公は
群馬県の館林城主として、学問に精進していた。

しかし、この時に将来の将軍の座が
約束されていた訳ではない。

上記の後の桂昌院と息子、綱吉公の
成り上がりストーリーは、まさに
「 運 」の連続だった。

と、言うのも時の4代将軍、家綱公の
亡き後の、お世継ぎは少なくとも綱吉公よりも
優勢な立場の将軍候補が2人も居たからだ。

そのうちの1人が後に5代将軍になる
徳川家宣【 享年51 】であったのだ!

しかし幸運にも、当時の徳川御三家の1つである
ここ茨城県の水戸藩第2代藩主の徳川光圀【 享年73 】
からの綱吉公の推薦が追い風となった。

[blogcard url=”https://takenori.info/blog/sakanoke/”]

徳川綱吉公は家光公の4男である。

なぜ、光圀公は優勢と見られていた
徳川家宣公でなく、桂昌院の息子である
綱吉公を推したのであろうか?

光圀公は「 家光公の血筋に近い方を
と推挙したのである。

もうひとりの将軍候補であった
徳川綱重公は35歳で他界していた。

そして病弱だった家綱公は子供が居なかった。

ここに、徳川幕府第5代将軍の
徳川綱吉が誕生したのである。

上記の時点で、綱吉公の実母である桂昌院の
成り上がり物語は一応の完結を迎えた。

桂昌院の生家となった場所はどこなのか

 では京都西陣の八百屋の娘だった、お玉こと
桂昌院の生家の場所は、どこだったのか?

つまり、もとは八百屋だったところである。

桂昌院殿生家菩提寺 」より引用↓

この石標は桂昌院生家の菩提寺真敬寺を示すものである。

【 引用ここまで↑出典:京都市 】

「 この石標 」がある場所の所在地は
京都府京都市上京区元福大明神町の菩提寺真敬寺
であるが「 生家 」と記載されているので、
おそらく真敬寺こそが、お玉が生まれた
八百屋で、あろうかと思われる。

さっそく、お玉の生家である
真敬寺の場所を、Gooleアースで表記する。↓

さらには、桂昌院の石標が有る真敬寺の
東側のGoogleストリートビューを表示する。↓

ハッキリと「 桂昌院殿御生家菩提寺 」の
彫り文字が確認できる。

ところで、お玉が養女として入った
下級武士の本庄宗正氏の本庄家とは、
なにつながりで縁が有ったのだろうか?

お玉の実父である八百屋を営んでいた
仁左右衛門が生前、野菜を納めていた御得意様
つまり、お客さんが京都の本庄家だったのである。

だが実は、それだけでは無く父亡き後
お玉の母である鍋田氏が本庄家に
後妻として嫁いでいた。

そんな母は暫くすると、武家の名門に飯炊きとして
迎えれ、後妻としてお玉をつれて嫁ぎました。

【 引用ここまで↑出典:英学の、おもしろい京都案内 】

なぜか下級武士なのに名門なのが謎だが、本庄宗正の
存在に関しては諸説あり、史実が明確でない面もある。

本庄家は大店との記述もあるが、武家である事だけは
間違いなく、お玉は武家作法を厳しく教え込まれたそうだ。

実は本庄家は2018年現在も現存するのである!

今でも実在する養女となった京都の本庄家

 お玉の母である鍋田氏が後妻として
嫁ぎ娘である、お玉自身も養女として
入った武家の名門、本庄家。

本庄宗政は下級武士なのに名門とは、
これいかに?という感じで、ツッコミどころが
満載な気もするが不肖この私めは
歴史研究家では無いので、これ以上は言及しない。

前章でも申し上げた様に、本庄家は
2018年現在も、しっかりと存在している。

本庄家と葵鉾 」より引用↓

五代将軍「綱吉」の生母,桂昌院が出た本庄家と
幼名をお玉と称したので、お玉さんが輿に乗って
「 玉の輿 」の言葉の語源となった。

その桂昌院が寄贈した葵鉾( 東石屋町 )がある。

【 引用ここまで↑出典:京都市上京区 】

上記のリンクから入れるサイト内に掲載されている
本庄家の写真の外観と全く同じ建物を
Googleストリートビューで発見してしまった。

しかしながら、現在の本庄家は一般の方が
住まわれている住宅なので、個人情報の観点から
残念ながらマップを本稿には貼れない。

そこでWEB上で一般公開されている本庄家の近所である
西陣の町家・古武邸 」の場所をシェアさせて頂く所存。↓

ただし本庄家の場所が分かったからと言って、やみくもに訪問するのは今、住まわれていらっしゃる方の迷惑にもなりかねないので御遠慮願いたい。

つまり父亡き後、幼かったお玉と母の鍋田氏が親子で入ったのが本庄家だったのである。

その後は本庄家との関わりから、永光院の侍女として将軍家に嫁ぐチャンスに恵まれた、お玉。

御小姓( おこしょう )御中臈( おちゅうろう )として将軍家の御台所に預かり、永光院の後に家光公に見初められての側室入りを果たした。

[blogcard url=”https://takenori.info/blog/himiko/”]

まさに、わらしべ長者てきな出世街道を一直線に駆け上がった、お玉こと桂昌院。

当の本庄家も、お玉が桂昌院光子となって将軍家の大奥に入った後は、その絶大な影響力にあやかって一族が栄えたという。

むろん、もって生まれた美貌に恵まれた事や運の要素にも多分に有ったことは間違いないが決して、それのみで将軍家の大奥に上り詰めた訳ではない。

[blogcard url=”https://takenori.info/blog/hototogisu/”]

幼くして父を亡くした、お玉は極貧の幼少時代を過ごしたとされるが、非常に聡明で機転が効く活発な娘だった。

大奥は当時の日本女性の憧れの的だったと言われているが、お玉は大奥女中の中でも
ひときわ光り輝くものを持っていたからこそ家光公に見初められたのだろうと思うのだが。

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