台風の進路予想の最新情報がメインのブログです
ヒムロックこと氷室京介氏【 57 】は元BOØWYのボーカリストだった。
実はボウイ結成前に所属していたロック・バンドのスピニッヂ・パワー時代を詳しく知る人物と今回、直接コンタクトを取らせて頂くことに成功し、インターネット上には無い極秘情報をゲット出来たので本稿で、あなたにシェアさせて頂く事にした次第♪
【 当記事ページの目次 】
【 前説 】2017年の今年は、あの伝説のロック・バンド「 BOØWY:ボウイ 」がデビュー35周年との事なので、記念商品の4K映像UltraHD-Blu-ray+BDが発売される。
…さて今日は、そんなBOØWYの元ボーカリストだった「 氷室京介( 本名:寺西修 )」氏【 57 】の、下積み時代にスポット・ライトを当てて行きたい。
伝説のバンドとして語り草になっているBOØWYは、解散した1987年の12月24日から遡ること2年くらいが音楽活動だけで飯が食えた時期だったと、元メンバーの布袋寅泰氏【 55:ギター担当 】は、とあるテレビ番組で振り返っていた。
その布袋氏はBOØWY解散後、歌手の吉川晃司氏【 52 】と
「 COMPLEX:コンプレックス 」なるユニットを組まれ、
さらにコンプレックス解散後の現在はソロで活動されている。
[blogcard url=”https://takenori.info/blog/koji-kikkawa/”]
ボウイ( 当初は暴威 )を最初に立ち上げたのが、ギタリストの布袋寅泰氏( 高校時代はBLUE FILMに所属 )に声を掛けた氷室京介氏本人( 初期は狂介 )だったのはBOØWYファンなら周知の事実。
解散当時、人気絶頂だったBOØWY( 暴威 )も、結成したばかりの1981年の初ライブの観客数は、後にドラマーとして加入する高橋まこと氏【 63 】を含めても、たったの13人だけだったという。
#エンタメステーション(@essite_official)にて『BOØWY 1224-THE ORIGINAL-』のレビュー、そして当時を振り返る記事が掲載されました!#BOØWY #BOOWY #BOOWY1987 #BOØWY1224 @boowy35thhttps://t.co/ybNnQX7XDX
— BOØWY35th (@boowy35th) 2017年12月1日
また結成当初は、後に固定された4人メンバーでもベースを弾き続けた松井常松( 以前は恒松 )氏【 57 】と、後に脱退するサックス担当の深澤和明氏、リズム・ギター担当の諸星アツシ氏の6人編成だった。
だが、1982年のアルバム・デビューから数年間は徐々に知名度を上げて行ったものの、バンド活動だけで十分な飯が食えた訳では無かったので、各メンバーはアルバイトを掛け持ちしていたが故に初期の暴威は厳し目な下積み時代だったと言って良い。
その暴威( 後のBOØWY )を結成する前夜、氷室京介氏が「 寺西修一 」という本名に近いクレジット名で参加していたバンド名が
「 スピニッヂ・パワー 」[ spinach-power ]と言う6人組の音楽バンドだったのである。
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寺西修一こと後の氷室京介氏は、
スピニッヂ・パワーに自分から加入した訳ではなく
1980年当時、契約を結んだ音楽事務所の
株式会社ビーイング【 本社:東京都港区六本木5-2-2 】の
創立者、長戸大幸社長【 69:現相談役 】の命に拠るもの。
寺西( 氷室 )氏が3代目のボーカリストとして、
スピニッヂ・パワーに在籍した期間は1980年の約半年間で、
当時のバンド・メンバーは寺西氏を含めて次の6名であった。
以下の画像は不肖この私めが、ヤフオク!にて落札した
寺西修一氏がボーカルを務めたスピニッヂ・パワーの代表曲「 ホット・サマーレイン 」のEPドーナツ版のレコードである。
( 1980年9月5日リリース )↓
つい最近まで、モバオクで上の画像と同じ商品が20万円近い値段で出品されていたのには驚いたが…
間違ったネット情報では作詞の「 奈月大門 」氏は長戸大幸氏だという記述が見られるが、
実際は違うのだという真相情報を、ご提供くださったA氏からの御指摘は次の通りである。
「 作詞の奈月大門はキングレコードDのS氏です。
長戸氏の仲間抱き込み作戦( 笑 )※S氏は後年、レコード大賞の「 舘ひろし/ 泣かないで 」のディレクターも… 」
なお非常に紛らわしいのだが、M.T.S.が1989年に出した12インチのアルバムLPの曲名、
「 SPINACH POWER 」とは全くの別物なので、あしからず。
ここまで引っ張っておきつつも、ようやく次章から本題に入る構成。
つまり、氷室京介氏がBOØWY結成前に所属していたロックバンドのスピニッヂ・パワー時代の氷室氏を詳しく知る方から直接仕入れる事が出来た情報を、あなたにシェアさせて頂く。
なお情報を提供して下さった、ご本人様からは
「 貴ブログに『 情報の出所=僕の名と存在 』を明記しないでください。これは絶対です! 」と釘を刺されているので、念のため。(^_^;)
ヒムロックこと氷室京介氏がBOØWY結成前に在籍した
当時のスピニッヂ・パワーを詳しく知る方と、
直でコンタクトを取らせて頂く機会に恵まれた事は、
不肖この私めに取り望外の喜びでもある♪(^o^)
前章でも述べた通り、「 くれぐれも名前、各人の
プライバシーに関わることを、よーくチェックしていただき
小松流の『 まとめ方 』でUPしてください。」
との約束が有るので、情報提供者の名前も情報の出処も
明かす事は差し控えさせて頂く所存。
ちなみにこの方は今、仕事をセミリタイヤをされているが
BOØWYの人気絶頂期の頃に氷室京介氏に直接、電話で話したところ
「 Aさんなら、よろこんで会いに行きますよ! 」と返事をしたのだ。
A氏いわく「 ま…一応、敬愛ですね( 笑 ) 」などと
謙遜しておられたが、人望が有ればこその
上記の氷室氏からの返事だったのだろう。
そのA氏に、氷室京介氏が寺西修一名で在籍していた当時の
スピニッヂ・パワーのメンバー間の雰囲気を、つづって頂けた。^^
「 寺西や他のメンバーたちから僕を見れば、
『 圧倒的経験差 』が有ったのだと思いますが
僕も、それほど偉そうにするタイプでもなかったので、
ギスギスした雰囲気は無かったですね 」
「 メンバーは年が近いので仲良くしてましたよ 」
「 それぞれ個別に何を話し合ってたかは
知りませんが皆、大人でしたね 」
「 寺西も馬鹿じゃない。でも、僕も馬鹿じゃない+
音楽知識・理解のHPが高い( 笑 )…かな 」
「 あとは長戸( 大幸 )氏の魅力と馬力かな 」
「 ぐだぐたメンバー間のみで『 能書き 』言ってるより
現実の、ひとつひとつが目前に有りましたから 」
「『 目的が明瞭、目的に対して忙しく・懸命に 』は
フツーの世界でも『 もっとも大事なこと 』ですからねぇ 」
「『 有名になりたい評価されたい 』と思えば、たいていは『 よーーーく考える 』( 笑 ) 」
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そこで私めはA氏に「 氷室京介氏は学生時代“ヤンチャ”で
ならした事で、かなり有名なのですが…
バンド内で揉め事とかは無かったのですか? 」と
以前からの疑問点を率直に、ぶつけてみた。
すると次の様な回答を、してくださったのである。
「 寺西がヤンチャしてたというのはWEBで知りましたが、そんな素振りは一度もなかったですし暴威が売れたので話しに箔がついただけで、僕の前では一度も『 その手の話しも無かった 』です。従順でしたよ 」
そしてA氏はスピニッヂ・パワー3代目のボーカリストとして
活躍されていた当時の氷室氏の心の内も読み取っていたのだ。
「 寺西は『 いい男 』でしたが、あの時点では
僕との経験差が大きかった 」
「 なので、彼には相当のストレスも
有った事は分かっていました 」
「 ( 当時の氷室氏が )ストレス性の病気にも、なりましたし 」
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規約⇒https://t.co/IOgFSoEC7Y pic.twitter.com/MJGBfr1oLx— Panasonic Japan公式 (@Panasonic_cp) 2017年11月13日
そして、A氏自身のことも述懐して以下の様に述べられた。
「 僕は『 歌の超上手い人たち 』と
やれたことで経歴に華が出来ました 」
「 寺西は声がロンリー【 孤独である:寂しいさま 】
歌には練習して体得できるものと、元々の『 天性の声質 』があり
魅力ある天性の声質には寂しげな響き( ロンリー )
※ジャクソンブラウン他、シンガーソングライター、AOR系に多い 」
「 日本では、ちょっと『 歌謡曲 』の
匂いがする歌い方が人気の要素 」
「 リスナーは気づいていないと思いますが、
長戸氏は『 そこ一本 』で攻め続けた…
ということも成功の大きな要因です 」
と、私めの様な歌の素人には
まずもって気づくことは無い、あまりにも達観な分析を
されているが、あのB’zやZARDもビーイングの
所属アーティストである。
[blogcard url=”https://takenori.info/blog/boowy-35/”]
そして、スピニッヂ・パワーでの経験が
後の暴威( BOØWY )で大成功する下地に、なったはずだと仰っていた。
「 寺西は、すねることもなくLIVEの選曲を
必死でコピーしてくれました 」
「 矢沢( 永吉氏 )とダウンダウン・ブギウギバンド的な経験から…
ザ・フーやモット・ザ・フープルなど、
当時のロッキンアーティストとの出会いにも、なったと思います 」
「 つまり少しは暴威の下地づくりにも役立った部分が、きっとあります 」
「 音楽を作るということは、自分の経験に上塗りを続けることなので 」
蛇足ながらに申し上げると、インターネットの誤情報では
Wikipediaでさえも、「 氷室氏はスピニッヂ・パワーの
EPレコードBORO BORO BORO( ボロボロボロ )から
コーラスで参加している 」と記されている。
不肖この私めは実際に、このボロボロボロの
EPドーナツ版も所有しているが何回、聴いても
バック・コーラスで歌われている筈の氷室京介
( 寺西修一 )氏の声が聴こえて来ないから
前々から、おかしいな~?とは思っていたのだが。
そしてよくよく調べてみると、
ボロボロボロの発売日は1979年10月5日で、
氷室京介氏が本名の寺西修の名前で参加した
ヤマハ主催のアマチュア・ロック・コンテストの
「 EAST WEST’79 」の全国大会( 中野サンプラザ )に
『 デスペナルティ 』というバンド名で出場している
8月25日から、わずか1ヶ月後の発売なのである。
氷室氏は1979年に、まだスピニッヂ・パワーに
加入は、されていないはず。
氷室氏が学生時代に組んだバンドである
デスペナルティには後の暴威のメンバーとなる
松井恒二( 常松 )氏も入っていたが、
スピニッヂ・パワーに加入する1980年に
ビーイングと契約を結ぶ為に群馬県高崎市から上京したと、
初期ボウイのマネージャーだった故・土屋浩氏が自身の書籍
「 大きなビートの木の下で:ソニー・マガジンズ文庫 」
の中で述べられている。( 著者名は紺 待人 )
さらに、スピニッヂ・パワーのセカンドLP
「 RUN AWAY TRIP:ラナウェイ・トリップ 」( 1979年12月21日発売 )
の中にも、このボロボロボロは収められているが
寺西修一氏のクレジット名は、どこにも見当たらない。
むろん私めは、このラナウェイトリップなる
LPレコードも実際に所持しているのは言うまでもないので、
氷室氏はボロボロボロからコーラスで参加されている訳では
ないと言い切れるのだ、が?
さて、ここからが本題だが
スピニッヂ・パワーのサードLPが1980年9月21日リリースの
「 IN and OUT:イン・アンド・アウト 」で、このアルバムこそが
3代目ボーカリストのヒムロックこと寺西修一氏の
歌声がメインで入っているLPレコードになる。
先程、紹介させて頂いたホットサマーレインの
楽曲も収められているが、セットリストは
次のような曲順になっている。↓
中でも4曲目の「 イッツ・オールライト 」に付いて
A氏は、実は次の様な出来事が有ったのだと回顧。
「 イッツ・オール・ライトという曲は、
サビを『 丸パクリ 』され大手飲料会社の
CMソングに使われてました…誰だっ!?( 怒 ) 」
3曲目に曲調に関しては「 NoNoNotサティスファイ=
専門的に説明すると転調を感じないメロディの後ろで、
厳密には「 何度も転調 」していて、
mコード( 短調 )が出てこない 」と解説。
「 捉えようによっては『 凝りに凝ったコード進行 』KINKSにもよくある手。
ま、リスナーにはどうでもいい話( 笑 ) 」
…いや、あの…話しが専門的すぎて
私めの様なシロウトには以上の解説が、
いまひとつピンと来ないのだが…
プロの方なら分かるのだろう。(^_^;)
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以上のLP、イン・アンド・アウトは
以前にヤフオク!でも出品されていたが価格が鬼のように高く、
5~8万円と手が出なかった思ひ出が…( 汗 )
当然、CDでは発売されて居ない超激レア物の
LPレコード盤だが、実は過去にCDでの
再発計画が有ったのだと前出のA氏は語る。
「 BOØWY全盛の頃、キングレコードが
『 スピニッヂAlbum・IN and OUT 』のCD再発を決定し、
発売日まで業界情報誌に告知しましたが
当時の所属事務所の反対で没に( 笑 ) 」
「 この話にはオチがあって、その当時キングレコードには
その事務所のタレントは居なかった( 笑 ) 」
続けてA氏はレコード会社と芸能事務所の
力関係まで把握している業界通の方だ。
「 つまり、レコード会社より芸能プロダクションの方が
力関係で上位ということ 」
「 寺西は、アマチュア( デスペナルティ )⇒
スピニッヂとビーイング社制作物幾つか ⇒暴威( BOØWY )成功 」
所で、氷室氏がスピニッヂ・パワーの3代目ボーカリストとして活躍していた当時、
懸命なPR活躍も虚しく思ったほど、火は付かなかったのだとA氏は振り返る。
絶対に匿名が条件のA氏は当時のスピニッヂ・パワーの
PR活動を次の様に振り返った。
「 スピニッヂについては『 憶測やまた聞き 』での
寺西( 氷室京介 )情報が溢れていますが、
当時のビーイング社の力では出来なかった、
ゴールデンタイムの歌番組露出や、キングRが
破格の1,500万円のラジオPRスポットを打つ等、
寺西を含めバンド・メンバーの皆が懸命に取り組んでいましたが、
火が付かなかったという現実に、それぞれが
『 こんなはずじゃなかった 』という落胆に、
つながったのだと思います 」
A氏に拠れば、当時スピニッヂ・パワーがリリースしたアルバム
「 イン&アウト 」の後の後発も解散に至る前に、
次アルバムの「 デモ 」を数曲録音していたのだと言う。
しかし、スピニッヂ・パワーのメンバー6名は
ビーイングによる「 音楽的共通項も無い 」バンドだったと述懐。
A氏は「 幻のデモ音源 」に付いて次の様な情報を下さった。
「 つまり、幻のデモ音源が存在…ですが
キチンとした歌、歌詞は入っていません 」
「 僕は20年ほど前に『 もう音楽をやることない 』と、
いっぱいあった過去音源を全部廃棄。手元にはありません 」
この「 デモ制作 」以後、スピニッヂ・パワーの活動は
事実上の状態として解散同然に陥った。
だが、スピニッヂ存続への可能性を探る
ビーイング社長(当時)長戸氏の、何度もの説得に対して
氷室京介氏は、以下のように告げている。
( 以下「 大きなビートの木の下で 」から引用 )↓
202P:長い沈黙の後、氷室( 京介氏 )が口を開いた。( ~中略 )
「 もう何度も言いません。俺、もう”スピニッヂ”では歌えないんです! 」
突然の事に布袋( 寅泰氏 )も初めは驚いたが
取り敢えず口を、はさまずに聞いていた。( ~中略 )席を立つべきタイミングで席を離れない二人を
社長( 長戸大幸氏 )は、しばらく無視するように
受話器に手を、やりながら言った。「 分かった。じゃあ好きにやってみなさい。
ただし、それが仕事になるかどうかは音が上がってから
また話しましょう。すべては、それからです 」
( 引用ココまで・出典:ソニー・マガジンズ文庫 )↑
長戸氏からの承諾を得た氷室氏は暴威結成へと動く…
( ※よく知りませんが「 一度は群馬に帰る決心・清志郎LIVEで
再挑戦決意」とかあるようですが… )
暴威結成への第一歩として、
ドラム担当だった木村マモル氏の自宅まで行き、
初期の暴威のドラマーとして迎えたのだった。
その後のBOØWYの躍進は、いまさらここで改めて
申し上げるまでも無いが、ボウイ解散後に氷室京介氏が
ソロに転向されてからもコンサート・チケットが
10分で売り切れた事や、チケットの予約電話で
文京区の電話回線がパンクしたほどの人気を博した歌手でも、
最初から全ての物事が順風満帆にトントン拍子に
上手く運んだ訳ではない事は、国民的アイドル・グループの
AKB48の初回講演に来た観客の人数が7人だった事を見ても明らかだ。
[blogcard url=”https://takenori.info/blog/akb48/”]
氷室京介氏がアマチュアからプロの歌手として
転向する際に音楽事務所のビーイングと契約するに至った経緯は、
先に申し述べた通りだが氷室氏は当初、自身が立ち上げたバンド
「 デスペナルティ 」でのメジャー・デビューを望んでいた様だ。
( 以下「 大きなビートの木の下で 」から引用 )↓
66P:1980年、上京した3人( 氷室《 寺西 》氏、松井恒二氏、菊池氏 )
を待っていたのは高崎( 群馬県 )で聞いた話しとは、まったく違う状況だった。理由は至って簡単。「 実力不足 」…たった、そのひと言だった。
松井( 恒二 )は”9thイメージ”というバンドへ、菊池は取り敢えず別の世界へ。
そして氷室は”スピニッヂ”というバンドへと”B”( Being:ビーイング )の
社長( 長戸大幸:現同社相談役 )の手に拠ってバラバラに、されてしまった。
( 引用ココまで・出典:ソニー・マガジンズ文庫 )↑
上記の記述が事実だとすれば、氷室氏は
自分が望んだ理想とは違った形でスピニッヂ・パワーに
加入した事になるが、当時の長戸氏は
「 高崎で良いボーカルを見つけた 」と言っていたのだという。
A氏はスピニッヂ・パワー加入直前の氷室氏を
「 寺西は矢沢真似ができるアマチュアほやほや… 」だったと回想。
氷室京介氏のコピバン音源は、たまにYouTubeなどでも
アップされるが、永ちゃんこと矢沢永吉氏【 68 】の
モノマネが出来るなんて、まったくの初耳であったなぁ。(*´∀`)
氷室氏がスピニッヂ・パワーに加入する頃には
3rdアルバム、IN&OUTの3曲のオケ録音は終わっていて、
その後すぐにレコーディングに入ったのである。
「( 当時の )長戸氏は東西奔走し、2~3時間の熱弁は当たり前…
で、片っ端から「 有望な人・実力のある人 」を
集めてました。その一人が寺西 」
「 タイミングとして、それまで( 2期まで )
上手くいかなかったスピニッヂの実態作りの
実現が図れたのだと思います 」
A氏は「 暴威ファンの研究は皆、外れでしたね。
沢山の偽情報WEBを見ました 」と述懐。
その中でも私めが運営する別のブログのコメント欄に
書き込みを頂いたのが御縁で直接メールにて、
やり取りをさせて頂いているのだが、その理由も教えて下さった。
「 これまで一度も『 暴威ファンWEB 』に書き込みしたことは有りませんが
僕自身が年老いた事、また、誤解・推測・間違い情報が多いこと、
さらに小松さんの『 記事 』が新しかったのと、文体で判断して
『 ま、少しなら 』という気持ちで…が書き込みの理由です。」
不肖この私めが投稿した記事を、評価して頂いた事は、
本懐之に過ぎるはない。^^[ spinach-power ]
[blogcard url=”https://takenori.info/blog/hamasaki/”]
「 スピニッヂ・葛藤あるも・ボウイでは・成功できた・下積み期間 」
※「 ッ 」で1拍( 1文字 )
寺西修一こと氷室京介氏が後の暴威( BOØWY )で
成功できた主要因は、無論1人の力では無いだろうし
ヒムロック自身の血の滲むような努力や天性の才能も
有ったのだろうが、A氏が指摘しておられた様に、
スピニッヂ・パワー時代に培われた
下地あってこその賜物なのだと思う。
「 下積み期間 」と称したが、氷室氏が在籍していた
スピニッヂ・パワーはTBSの「 11時に歌いましょう♪ 」など
頻繁にテレビ出演もされているので、果たして下積みと言えるのか?
と疑問に感じられる方も中には、おられるかも知れない。
しかし、スピニッヂを抜けて暴威( BOØWY )を結成後も、
後年ギター担当をしていた布袋寅泰氏の
TV番組での話しでは、純粋なバンド活動だけで食えたのは
解散から逆上ること2年くらいだと明言されているのだ。
( 以下「 大きなビートの木の下で 」から引用 )↓
P209:「 ご飯どうしよっか…? 」
「 お腹ちょい減りましたねぇ… 」
なけなしの千円札を持って2人( 氷室氏と布袋氏 )
で、コンビニエンス・ストアに出かける。
( 引用ココまで・出典:ソニー・マガジンズ文庫 )↑
あの伝説と呼ばれたバンドですら、初期のころは
ひもじい思いを、されながらの活動だったのである。
所でA氏も長年プロとして音楽業界で活躍してこられた方であるが
本人との約束があるので、これ以上の素性は明かせない。
そのA氏がプロに付いて次の様に語っていた。
「 苦しいのがプロ・楽しいのはアマチュア ( 笑 )
プロは、つねに様々なジャッジを受け続けます 」
「 アマチュアには、それが無いので皆、自己評価が高くなります 」
個人的な感想ではあるが、スピニッヂ・パワーの曲も
BOØWYの曲も本当にクオリティーが高いと感じるのだが、
だからと言ってすぐにヒットに繋がるのかと言えば、
決してそうでは無い現実が、音楽業界で
プロとして食っていく事が厳しい所である。
今から5年くらい前の私めは、氷室京介氏が
ボウイ結成前夜に所属されていたスピニッヂ・パワーの
存在自体が興味津々で夢中でネット検索しまくっていたのを
覚えている。
[blogcard url=”https://takenori.info/blog/ellegarden/”]
ちなみに昨年2016年のコンサート・ツアーで
ライブ活動の無期限休止を発表した氷室氏だが、
音楽活動は今後も続けて行くと宣言されている。
当然、今後あらたなアルバムもリリースされようが、
いちファンとしては期待せずにはいられない。
さて、今回はBOØWYのデビュー35周年という
節目の2017年に、こうして密度の高い記事を投稿できる
貴重な機会を与えて下さったA氏には、改めて
この場で厚く御礼申し上げたい。m(_ _)m
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はじめまして!
「2017年12月7日
氷室京介氏のBOØWY結成前のバンドの超極秘情報を入手した!」の記事
非常に興味深く、また貴重な情報・エピソード楽しく拝見させて頂きました。
実は教えて頂きたい事がありまして
コメントさせていただきました。
文面を見る限りスピニッヂ・パワーの
サードLP「 IN and OUT」を
所持されているかと思うのですが、
そのアルバムの中の「インタビュー」
という曲の歌詞がどうしても知りたいのです。
教えていただけないでしょうか?
音源のみを所持してるのですが
歌詞が聞き取りにくい部分があり
気になって仕方ないのです…
勝手なお願いであることは重々承知ですが、お時間かかっても構いませんのでご検討・折り返しご連絡くださいますよう何卒よろしくお願いいたします。
山本さま、コメントを頂き、ありがとうございます。
私が所有しているレコードはシングルLPの
「 ホット・サマー・レイン 」と2nd-LPの
「 ラナウェイ・トリップ 」だけで、あいにく
「 インアンドアウト 」は所有いたしておりません。
さて山本様が、お知りになりたい「 Interview 」
の歌詞ですが「 著作権 」の問題が、ありますので
本稿に記載は出来かねます。
なので、山本様の連絡先に記したいと思います。
では、宜しく御願い申し上げます。m(_ _)m
懐かしい
中路 晋さま、こころあたたまるコメントを頂き、ありがとうございます!
中路 晋様ご本人だとしたら、光栄です。(^^ゞ