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今から75年前の1945年の8月6日の朝8時15分17秒に、ウラン型原子爆弾がアメリカ軍のB29から広島市に投下され、地上から600メートルの上空で爆発し16万6千人の尊い市民の命が奪われた。
【 当記事ページの目次 】
2020年の黙とうの日時は例年と同じ6日の朝8:15から1分間、長崎は9日の朝11:02から1分間、厳粛に行われる予定だ。
県や市に残る記録では午前7時48分に警戒警報が出た後、同7時50分に空襲警報に切り替わり、同8時半には解除になっている。
その後は原爆投下までの間に空襲警報は出されていないことになっている。
ところで広島のみでなく、9日の朝11時2分にも落とされ4万人という多くの市民が犠牲になった長崎市[ nagasaki ]のプルトニウム原爆の投下の「 直前にも空襲警報も警戒警報も発令されなかった 」。
「 ところが夜の9時ごろになりまして、空襲警報が発令されました。
『 そら来た 』といって私どもは身支度をしまして防空本部へつめました。しばらくしたら空襲警報が解除になりました 」
その後、午前0時に再び、空襲警報がなり、浜井さんは市の防空本部へ向かいます。
そして午前2時、空襲警報が解除されました。
詳しく記すなれば警報自体は前日の5日の深夜に2回と、6日にも原爆が投下される前に警戒警報と空襲警報のサイレンが、それぞれ1回づつ鳴り響いている。
1回目が真夜中のAM0時25分の空襲警報発令で、これは同2時10分に解除された。
2回目は朝7時9分、広島上空に現れた気象観測機のストレート・フラッシュに対して発令された警戒警報で有った。
中国軍管区司令部から7時9分に警戒警報が発令されたが、そのまま広島上空を通過離脱したため、7時31分に解除された。
観測機は高々度を飛んで行っただけだったので、7時31分に警報は解除されたが。
ストレート・フラッシュ飛行後の後に、原爆を積んだB29を含む上記の3機が編隊で来襲した6日の朝8時15分前に警報が鳴る事は無かった。
上記の理由は一体、どういう事なのであろうか?
アメリカの戦闘爆撃機B29の本土空襲は、陸軍参謀本部直属の陸軍特殊情報部が100人以上の人員を投入し、24時間体制で暗号通信を傍受しており、広島と長崎の原爆投下の情報も事前に察知していたと言われている。
もちろん特殊任務機B29の暗号通信を傍受した陸軍特殊情報部から上層部の参謀本部に上がった報告を基に各都道府県の軍司令部に空襲の情報を伝達していた。
つまり広島の時も長崎の時も、「 参謀本部に事前に空襲情報の報告が上がって来ていた厳然たる事実が存在する 」のであった。
しかし実際には結果的に事前情報を把握している筈の参謀本部から広島や長崎の軍司令部に「 米のB29が本土空襲に来る 」という連絡が来なかったのであるっ!
原爆を積んでいるのか、いないのかまでは把握していなかったのかも知れないが、
事前に情報を知り得ながらも一切の連絡を、してこなかった参謀本部の判断に基づく行動が、広島のみならず長崎への原爆が投下された時に空襲警報が鳴らなかった最大の理由なのは間違いない。
広島市と長崎市への原爆投下を含め、太平洋戦争時に日本がアメリカ軍から受けた本土空襲の回数は合計で1035回にも及ぶ。↓
では何故、日本陸軍の参謀本部はアメリカ軍のB29の暗号を傍受し、事前に空襲情報を知っていながら、広島と長崎の軍司令部には人命に関わる極めて重大な連絡を、して来なかったのであろうか?
上記の理由の真相は不明なままだとされているが徹底的に調べてみても残念ながら答えは見つからなった。
今更「 たられば 」を言っても何も始まらないが、もしもこの時に参謀本部から的確な本土空襲の情報が広島・長崎の軍司令部に届いていたならば、ここで空襲警報が発令させる事が出来て、地下の防空壕や鉄橋の下などの安全な場所に市民が避難できたで有ろう事から、荼毘( だび )に付された犠牲者の方々の数は、もっと少なく済んだのかも知れない。
なぜ日本陸軍の幹部がB29の本土来襲の情報を伝達しなかったのか?
この疑問は真相が解明されていないので、これ以上の憶測は差し控えるが次章以降では「 陸軍参謀本部の、どの将校が事前情報を
把握していたのか? 」を詳しく検証して行きたい。
第二次大戦中のアメリカ軍の戦略爆撃機、B29の主要発着場は日本から約5時間、
2400Kmの所に有る北マリアナ諸島テニアン島のウエストフィールド航空基地に有った。↓
特殊任務機B29の存在を参謀本部の軍幹部は2か月以上前から把握し追跡していた事実が明らかに、なっている。
直接の通信を傍受していた部隊は前出の「 陸軍特殊種情報部 」だが、B29から発せられるモールス信号の暗号自体の解読は出来なかったそうだが、冒頭のコールサインVから始まる3ケタの数字だけは暗号化されずに、やり取りされていた。
この3桁の暗号化されていない数字はB29の、それぞれの機体の個体番号なのだが島ごとにコールサインが振り分けされていた。
しかも途中から突然現れたV600番台は今までに聞いたことが無いテニアン特殊任務機で、10機あまりの第509混成軍団だと言う所まで判読していたのだった。
さらにはモールス信号本体の暗号を解読せずとも各機体の具体的な行先まで分かっていたのだとか!
陸軍参謀本部のTOPに就いていたのは、「 梅津美治郎 」陸軍大将【 満67歳没 】であるが、6日に広島に原爆が投下された後の軍会議では、次の様な事を話している。
「 原子爆弾の惨禍が非常に大きいことは事実であるが、果たしてアメリカが続いて、どんどん原爆を用い得るかは疑問である 」と。
この様に根拠の無い主張を、された梅津参謀総長の判断が、9日の長崎市への原爆投下の甚大な被害に繋がったのでは無かろうか。
参謀TOPである梅津総長の側近と言われる「 井上忠男 」中佐の備忘録資料が防衛省の防衛研究所に、保管されて居る事が分かった。
長崎市に原爆が投下される9日の走り書きには、
「 特殊爆弾V675通信上、事前に察知。長崎爆撃5時間前 」とある。
これは9日に再びV675のコールサインを傍受し、原爆の広島投下の時と全く同じ特別な電波を使っていた事を掴んだのであるが、発信元もテニアン島であった。
諜報部隊の大田新生中尉が暗号を掴み、普通でないと不安に感じて場所は分からないが数時間後には日本の、どこかに落とされる危険が大だと直感して、参謀本部に報告した情報だ。
大田中尉の報告内容は次に掲載する堀少佐も認識していたが、結果的には取り上げられず6日に続く惨禍を9日にも招く事となった。
中尉は後に「 情報を使った努力の形跡が見られないから余計悔しい 」と語っている。
陸軍大本営の参謀本部情報を扱う第2部のアメリカ軍の諜報活動を任されていた、
「 堀栄三 」陸軍少佐【 満81歳没 】の肉声テープが残っている。
テープの内容は「 V600番台のコールサインを持っておる部隊と言うのは正体不明の部隊で番号を丹念に拾うと12~13機しか無い、これは小さなもので非常におかしいと、それを一生懸命に追っかけておったんですね 」というもの。
つまり特殊任務機たるB29の情報は軍の中枢にまで伝わっていたという事だ。
実は堀少尉、戦後の手記にも「 コールサインを8月9日にも同様にキャッチしたが処置無し。後の祭りとなる 」などと書かれている。
さらに軍の中枢である大本営陸軍参謀本部は内部では原爆の存在を認めていた、もう1つの証拠が存在する。
6日に原爆が広島に投下された時にV600番台のコールサインの情報を突き止めた功績が評価され、「 ご苦労だった 」と後の8日に特殊情報部の中庭で行われた参謀本部の表彰式に出席した元大尉の田中國男夫氏が証言した。
これらの事からも、参謀本部が原爆の搭載まで読んでいたかどうかは、ともかくとしてB29の特殊任務機の情報は参謀本部の上層部までしっかりと伝わっていたのは間違いない。
しかし問題なのは、ここからで「 なぜ参謀本部は、ここまで情報を掴んでいながらも広島と長崎に伝達を行わなかったのか? 」という謎に
ぶち当たる訳なのだが、ここでノンフィクション作家の故・鬼塚英昭氏【 満78歳没 】が気になる記述を、されている箇所が有ったので引用させて頂く。
( 以下「 原爆の秘密・国内編 」から引用 )↓
その中でも最も重大な欠陥は警報発令の
全責任を持っている参謀が連日連夜の
激務に[ 疲れ果て ]ていて気の毒な程
疲労困憊し軍医からも絶対静養を命ぜられていた
という極めて悪条件下にあったということで
あるから的確な作戦指導行為の出来ないのは
当然であった。
( 引用ココまで )↑
ただし不肖この私めが思うに、個人的には何か違う気がする。
極限まで疲れ果てていたのが事実だったとしても、陸軍参謀本部はチームプレイなのだから、これのみが原因で原爆投下の特殊任務機の本土空襲の情報を2回も見過ごし、結果的に伝達ミスなんて失態を重ねるのだろうか?
「 何かの意図を持って伝達を行わなかった? 」とまでは言わないが…
戦時中、日本軍の敗色が足音を潜めつつも
いよいよ濃厚になってきた昭和18年【 1943年 】
ときの東条英機首相【 満64歳没 】は
「 兵器開発担当幹部に向けて原子爆弾は
アメリカの研究が相当に進んでいるとの情報もある。
この開発は戦争の勝敗を制する事に、なるかも
しれないので航空本部が中心となって、
これが促進を図れ 」と指示した。
断っておくが、けっして原爆の製造を
啓蒙する意図などは、みじんも無く
広島・長崎に投下された原爆の凄惨さを
鑑みつつも日米戦争の歴史を振り返るのが
本稿の狙いなので誤解なきように。(^_^;)
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つまり、当時の日本軍はアメリカの
マンハッタン計画と同様に陸軍の二号作戦として
故・仁科芳雄博士【 満61歳没 】を中心に
110人の研究チームで、これの開発に取り組んでいた。
これの詳しい経過は訳あって、ここでは
割愛させて頂くが航空本部は最終的に
昭和20年【 1945年 】の6月末に開発を断念している。
その理由に度重なる空襲や
資材不足を上げ、陸軍作成の報告書には
6月28日付けで「 放射性ウランの開発は出来なくなった。
アメリカ側に於いても為し得ざるものと判明せり 」
と書き連ねているが米国は開発実験に成功している。
8月6日に広島に原爆が投下されてから
翌7日、壊滅の知らせを受けても陸軍は、
これが原爆だと認めなかったという。
東郷茂徳外務大臣【 満67歳没 】に
説明を求められた某陸軍幹部は
「 アメリカでは原子爆弾とか言っているが
非常に力の強い普通の爆弾と思われる 」
などと被害を非常に小さく見せようと
していたらしい。
特殊情報部で機密情報を取りまとめる
任務に付いていた元陸軍少尉の
長谷川良治氏は悔しがった。
何故ならば前述したように特殊情報部から
参謀本部に上げた情報が活かされずに
結果として広島と長崎に原爆が落ちても
避難できなかった多くの市民が犠牲に
なったからである。
機密情報の口外を固く禁じられていた
長谷川氏は8月11日から終戦までの間、
軍の関係資料を全て燃やすように
上層部から命じられた。
九州、大村の戦闘機部隊で紫電改【 しでんかい 】の
パイロットを、されていた本田稔氏は
B29を落としたこともある凄腕の操縦士だ。
紫電改は高度1万メートルまで上昇できる
戦闘機だが、本田氏は紫電改に乗務しながら
原爆に拠って消えた広島を見たのだという。
しかしながら、6日の広島の時も
9日の長崎の時も軍の参謀本部から出撃命令が
下ることは一切なかったのだと言う。
なぜ軍の上層部は戦闘部隊への
出撃命令を出さず、広島・長崎への
空襲警報の情報を伝達しなかったのか?
原爆が投下されたあと、傷ついた人々を
病院に運ぶ任務を命じられた本田氏は、
こう思った。
「 …泣けてきた。軍人として情けなかった。
( 長崎の原爆が投下されるまで )
5時間も有ったら十分待機できた筈!
これが今の日本の姿ですかね?
こんなこと、また起きるんじゃないですか?
こんなこと許しとったら? 」
終戦から72年目の今年、2017年も
人類初の核兵器、原子爆弾が広島市と
長崎市に落とされて20万人もの
尊い命が犠牲になった戦没者への
慰霊と哀悼の意を示す「 黙とう 」が
行われる。
8月の6日が朝8時15分から1分間、
9日が朝11時2分から1分間、どこに居ても
目を閉じて行えるのが黙とうである。
原爆投下の被害に拠って荼毘( だび )に付された
多くの方々の御冥福を心より、お祈りしたい。
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ABC各種兵器に関する機密情報は、焼却処分されたはずですが、現実として米軍側に引き渡されていて、情報公開制度で明らかになっていたと思います。
核兵器のみならず、実戦でのデータ収集にも広島・長崎が使われたものと推測します。
人・モノ・カネの流れからも、おそらく現在の北朝鮮情勢の様に、ここぞとばかりに戦後の保身を見据えていた集団がいたと、言う訳でしょうか。
みるぞん様、ご丁寧なコメントを賜り恐縮です。
「 ここぞとばかりに戦後の保身を考えていた 」集団…
と言うよりは、個人では中国の旧満州国に有った恐怖の
関東軍731部隊に居た某将校の方では、ないでしょうか?
あまりにも残忍な人体実験で収集したデータをアメリカに
提供した見返りに、身の安全を保証されました。
記事本文には敢えて書きませんでしたが、まさか
意図的にヒロシマ・ナガサキに原爆が投下されると
分かっていながら、わざと見過ごしにしたとは考えられませんが…
初めてコメント欄を使わせていただきます。東京在住の寺本と申します。
伯父がテニアン島で昭和十九年(1944年)に戦争で亡くなりました。
その翌年の原爆の被害と併せて、胸の痛む話題です。
もう私も若くないこともあり、テニアンやマリアナのことを
手あたり次第に調べています。
厚かましいお願いで恐縮ですが、お書きになっている陸軍参謀本部が
無線を傍受していたという情報は、どのような資料等でお知りになったのか、
お差し支えなければお教えいただけませんでしょうか。
急ぎませんので、お時間あるときにでもご対応いただけると幸いです。
なお、蛇足ながら少し補足申し上げます。
去年(2017年1月)にテニアン島に行って参りました。
貴ブログの飛行場について、確かにサウスフィールド(今の国際空港)が、
B29などの発着に使われたのは間違いございません。
一方で、グーグル・アースにも載っていますが、島の北部にある
ノースフィールド(地図に、WW2 bomb…と書いてある場所)も、よく利用されていました。
むしろこちらが中心だったかもしれません。そう思う理由ですが、
(1)滑走路はノースが4本(この写真にも写っています)、サウスは古い地図を見る限り1本、
(2)ノースのほうが、日本本土に近いし、補給基地のサイパンもすぐそば、
(3)広島と長崎の原爆は、ノースフィールドで組立、搭載されて、ここからB29が離陸している(その施設が現存しています)、
(4)日本海軍も、こちらに航空隊の基地を置いていました。いきなり長文で失礼いたしました。 寺本 拝
寺本匡俊様、貴重な情報を頂き誠にありがとうございます。m ( _ _ ) m
まずは、ご質問の「 陸軍参謀本部が無線を傍受していたという情報は
どのような資料等で、お知りになったのか? 」に対する回答ですが、
情報ソースは2011年8月6日に放送されましたNHKスペシャルの番組で、
「 原爆投下・活かされなかった極秘情報 」というタイトルの動画からです。
上記の動画は今現在、YouTubeには一切、有りません。
ですが、Dailymotionという動画サイトには残っていますので
アドセンスの規約上、URLのリンクは、ここには貼れませんが
「 NHKスペシャル原爆投下・活かされなかった極秘情報 」で検索されれば
まだ動画が残っていますので、ご覧になれると思います。
寺本様の調査に、お役立て頂ければと思います。
それと寺本様のコメントの単語の中に一部、Googleアドセンスの
ポリシーチームの規約に触れるキーワードが含まれていましたので
勝手ながら私の方で編集させて頂きました事を、お許し下さい。
小松様。早速のご返信、また、貴重で豊富な材料をいただきましたこと、心より御礼申し上げます。これは感謝と感想だけですので、アップされるかどうかはご判断にお任せします。まずは、ご編集の件、お手数をお掛けして恐縮です。ネットのポリシーにお詳しいのですね。私のブログには、そういう慎重さが欠けております。これまでの記事、どうしたものか。ちなみに、昨日のコメントは原文を残していないので、最初の段落を修正していただいたところしか分からなかったのですが、ともあれ以後注意いたします。
番組はご指定のサイトで観ました。今まで知らなかったことばかりで驚いています。何年か前に「はだしのゲン」が話題になったとき、広島出身の友人が、「地元に残っている写真は、あんなもんじゃない」とだけ言っていましたが、こういう裏事情を聞くと、やりきれない思いがいたします。
「それにしても、なぜ、こんなことが?」という疑問は残りますし、でも解決しそうもないですね。長崎は番組内でもあったように、ソ連の参戦とポツダム宣言の受諾可否の騒ぎで、「それどころではなかった」のかもしれません。でも広島はそれでは説明できないです。
仮に自分がその時、市ヶ谷の大本営にいたらどうするか、と想像してみました。エノラゲイは、機体や積み荷に深刻な事態が起きたときに備えて、緊急着陸するため硫黄島の真上を通過しています。そのまま真っすぐ進むと、広島のほうではなくて、米軍が通常、目印にしていた富士山です。ここまで相手の準備状況をつかんでいたなら、特殊爆弾が東京に来ると考えたと思います。それならば、大急ぎで頭上の防空を手当てしないといけません。あるいは地下のシェルターに向かうか。
この有り様では、いまだに日本政府がアメリカに強気になれないのも分かるというものです。当事者が仰っていたように、こういうことは繰り返し起こり得るものだと思います。と言うよりも、この一年前にマリアナ諸島は、軍部に見捨てられていますから、すでにこれ自体が、その延長・繰り返しであるように感じます。
勝手な依頼事に丁寧に対処していただきまして、大変ありがとう存じます。 寺本 拝
寺本匡俊さま、丁寧な御返信を頂き、恐悦至極に存じます。
当時の大本営が、広島の軍部に連絡を行わなかった「 真の意図 」は
NHKスペシャルでも、明らかにされていませんでしたね。
「 行わなかった 」のか、それとも「 行えなかった 」のか、
真相は分かりませんが、いずれにせよ警報が鳴らなかった原因は
特定が出来たわけです。
それと、寺本様が仰る様に「 この一年前にマリアナ諸島は、軍部に
見捨てられていますから 」という現象は戦後も起きていますね。
それが、「 シベリア抑留 」の労働力として旧満州の関東軍総司令部は
日本軍の捕虜を差し出した、とする説なのですが、ハッキリとは分かっておりません。
本稿の記事が寺本様の研究に、お役立て頂けたのだとすれば嬉しく思います。
小松様。たいへん勉強になりました。ありがとうございます。いくらテニアンで検索しても出てこないものがありました。サハリンにも関心事があります。またコメントをお送りするかもしれません。どうぞ宜しくお願い致します。
寺本様、お返事を頂き「 記事を投稿した甲斐があった 」と
改めて実感することが出来ました。
今後の記事を更新してゆく、励みにもなります。
こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。m(_ _)m
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