熊本県水俣市では2日間の雨量が500mmを超え、再び浸水が心配される熊本県内最大の一級河川、球磨川( くまがわ )の過去の氾濫の歴史を、まとめた。
【 本稿の記事ページの目次 】
球磨川くまがわ氾濫の過去の歴史の一覧表
記録されている球磨( くま )川の過去の氾濫の歴史の中で一番、甚大な被害があったのは1965年の「 大雨による昭和40年7月洪水 」だった。
梅雨後期の停滞前線により、6月28日ごろから雨が降り続き、7月2日の夜半ごろから流域の各地で豪雨となり、至る所ではん濫しました。特に、人吉市では市街地が浸水するとともに、20数戸が流されました。
人吉水位観測所では計画高水位を大幅に上回る水位を記録し、青井阿蘇(あおいあそ)神社楼門では基礎石のところまで水が押し寄せる大洪水となりました。
八代市では萩原橋下流右岸において堤防前面が崩れ、4戸が押し流されるとともに前川(まえかわ)堰も損傷しました。
また、水無(みずなし)川からのはん濫等により八代市内で浸水被害が発生し、川辺川でも家屋の流失、橋梁流失などの被害が相次ぎました。
流域市町村における被害の状況は、家屋の損壊・流失1,281戸、床上浸水2,751戸、床下10,074戸と甚大な被害が発生しました。
上の3枚あるうちの横長の引用画像は、人吉大橋付近の人吉市街部の浸水状況の写真である。
その他の2枚は、屋根に上がって避難する人吉市の人々と、船で避難する球磨村の人々の写真だ。
「 暴れ川 」の異名を持つ球磨川の、氾濫の過去の歴史で一番ひどい1965年の「 昭和40年7月洪水 」による被害の内容は以下の通り。↓
- 家屋の損壊・流失1,281戸
- 床上浸水2,751戸
- 床下浸水1万74戸
令和2年7月豪雨による2020年の氾濫でも、浸水面積は約1,000ヘクタール、約6,100戸が浸水している。
以下にまとめたのは、昭和40年7月の梅雨による洪水以外の過去の氾濫の歴史の一覧表だ。↓
- 1927年( 昭和2年 )家屋損壊・流出32戸、浸水家屋500戸
- 1944年( 昭和19年 )家屋損壊・流出507戸、床上浸水1,422戸
- 1954年( 昭和29年 )台風/家屋損壊・流出106戸、床上浸水562戸
- 1963年( 昭和38年 )前線/家屋損壊・流出281戸、床上浸水1,185戸、床下浸水3,430戸
- 1964年( 昭和39年 )台風/家屋損壊・流出44戸、床上浸水753戸、床下浸水893戸
- 1971年( 昭和46年 )台風/家屋損壊・流出209戸、床上浸水1,332戸、床下浸水1,315戸
- 1972年( 昭和47年 )梅雨/家屋損壊・流出64戸、床上浸水2,447戸、床下浸水12,164戸
- 1982年( 昭和57年 )梅雨/家屋損壊・流出47戸、床上浸水1,113戸、床下浸水4,044戸
- 1999年( 平成11年 )台風/床上浸水3戸、床下浸水20戸
- 2004年( 平成16年 )台風/床上浸水13戸、床下浸水36戸
- 2005年( 平成17年 )台風/床上浸水46戸、床下浸水73戸
- 2006年( 平成18年 )梅雨/床上浸水41戸、床下浸水39戸
- 2008年( 平成20年 )梅雨/床上浸水18戸、床下浸水15戸
- 2011年( 平成23年 )梅雨/床上浸水4戸、床下浸水4戸
上記の一覧まとめ引用⇒「 昭和以降の主な水害:国土交通省 」
1965年7月の洪水被害を入れると、なんと球磨川の過去の氾濫の歴史は大小合わせて15回も発生していた!
特別養護老人ホーム「 千寿園 」も球磨川の氾濫の被害を受けている。
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くまがわ氾濫の被害を受けた千寿園の場所
令和2年7月6日の午後7時の時点での球磨川の氾濫による犠牲者は49人で、うち14名は浸水被害を受けた千寿園の入所者だった。
当初、心肺停止が報じられていたが、全員が命を落とされた。
千寿園の所在地は「 熊本県球磨郡球磨郡球磨村大字渡乙1750 」で、実は球磨川とその支流である「 小川 」の合流地点の「 扇状地 」に建っていたのである。
球磨川の水量が増大して氾濫したことで、支流の小川に逆流したのであろう。
浸水当時、現場で救助活動をされていた方は、「 まるで津波のようだった 」と語った。
職員と地元の協力者約20人で入居者を2階に運んだが、寝たきりや車いすの人が多く、避難に時間がかかった。
エレベーターがないので、階段で1人を4、5人がかりで運んだ。
目の前の小学校の校庭が完全に浸水し「 やばいと思った 」。
午前5時ごろには水はホームの玄関まで迫り、避難を促され、その場を後にした。
「 間に合わなかったのかもしれない 」。
男性は悔しさをにじませた。
洪水が窓ガラスを割って園内に浸水してきたため、入所者を2階に運んでいたが、間に合わなかったという。
亡くなられた方々には心より、ご冥福をお祈りします。
過去に川辺川ダムの建設が中止された歴史
球磨川の治水対策として過去の歴史をさかのぼると、熊本県球磨郡相良村大字四浦字に建設が予定されながらも中止となった、「 川辺川( かわべがわ )ダム 」の存在が浮き上がる。
川辺川ダムは洪水および灌漑【 かんがい:水路を作り田や畑に必要な水を引いて土地を潤す意味 】などの目的で計画されていた。
そもそも川辺川は、人吉盆地で球磨川に合流する最大の支流である。
今回の浸水被害があっても、なお川辺川ダムの工事を再開する動きはない。
直接的には、2009年(平成21年)当時の民主党政権で国土交通相に就任した直後の前原誠司国交大臣【 58 】( 現・国民民主党 )が9月17日未明に「 マニフェストにある通り、八ッ場ダムと並んで川辺川ダム建設の事業も中止します 」と表明した。
この洪水を含め、63~65年に3年連続で大水害が起きたため、国は66年7月、治水を目的とした九州最大級の川辺川ダムを球磨川支流に建設する計画を発表。
水没予定地の同県五木村から約500世帯が移転したが、反対運動の広がりを受け、蒲島郁夫県知事が2008年に建設反対を表明。
翌年、民主党政権下の前原誠司国交相(当時)は計画中止を表明した。
その後、ダムに代わる治水策の協議が続くものの、代替案は策定されていない。
民主党政権が川辺川ダム建設を中止したのは事実だが、その前年にはすでに反対運動が起きていて当時の蒲島郁夫県知事【 73/現職 】も反対を表明している。
では2020年の球磨川氾濫に際して、蒲島知事はどの様に語っているのか?
蒲島知事は5日、川辺川ダム中止の決断は県民の意向とした上で、反対の方針に変わりがないと強調した。
大きな被害に「 大変なショックを受けた 」とし、「 ダムによらない治水を目指してきたが、費用が多額でできなかった 」と述べた。
つまり、蒲島知事は「 今でもダム建設は中止の方針だが氾濫は大変ショックだ 」と受け止めている。
なお、群馬県の八ッ場ダムの方は政権交代で工事再開となり、2020年( 令和2年 )3月31日に完成し、4月1日に運用が開始されている。
以上のことからも、過去の川辺川ダム中止の歴史は民主党政権の独断だけが理由ではなく、もっと複雑な要因が複合的に絡み合っている。
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2020年7月の球磨川の氾濫と決壊は12ヶ所
2020年7月5日の正午の時点で球磨川の国管理区間では決壊が1カ所、氾濫が11カ所確認されている。
九地整によると、5日正午現在、球磨川の国管理区間では決壊が1カ所、氾濫が11カ所確認され、うち半数が上流部だった
国土交通省【 国土地理院 】が発表している浸水推定図は、以下のリンクから。↓
しかし、7日の時点でもまだ大雨が降り続いているため、今後もさらなる決壊や氾濫の危険性がある。
激甚災害指定は1週間後に判断と菅官房長官
2020年7月6日午前の定例会見で、ガースーこと菅義偉官房長官【 71 】が、球磨川地域の激甚災害指定を「 1週間後をメドに判断する 」と述べた。
では、球磨川が国から激甚災害に指定されると、どうなるのか?
激甚災害に指定されると、道路や河川など自治体の復旧事業の費用の国庫補助率が上がるなどの特例措置が適用される。
判断に1週間を要するとの事だが、激甚災害に指定されれば国が財政面の支援を行う。
不肖この私めは熊本県民ではないが、むろん一刻も早い国の援助を望みたい。